その昔ひたちなか市にも艦砲射撃による戦災があった_2

米軍艦隊の航路と砲撃された箇所の位置図を作成しました。元となるリポートがきちんと保管されて公開されていることに驚きであり、記録の重要性がわかります。

ひたちなか市は1945年7月14日に岩手県釜石市を攻撃したアメリカ艦隊が、そのまま南下して7月17~18日にかけて小雨降る真夜中に艦砲射撃を行ったものです。
以下に当時の住民からの証言を掲載します。

■証言1

最初は日立あたりがドカンドカンっていうので目がさめていました。10分ぐらい過ぎてから勝田市が砲撃された。「艦砲じゃないか」と長男が言ったが高等科1年の息子がよく気がついたよ。
日立兵器を戸を開けて見たらとてもここでは命はあるまい。死ぬ時は一緒に死のうというわけで家内と私は布団をかぶって。長男は頭全部なくなってしまった。小3の娘は下に引っ込んでいて何にもけがはなかった。私らも少し出ていたら頭なくなっていたでしょう。
娘:最初は兄と表を見たんです。空が真赤に明るくなったんです。父に「そんなに見ててはだめだ」ってしかられて布団の中にもぐったんです。みんなは上の方にいて、私だけこわいと思って下の方にもぐったんです。だいぶたってパアンと音がして、父も母もうなり出して兄も動かない。首がなくて。
朝になって長男を大島へリヤカーで運んで火葬にしたんです。夕方だと思ったな。その時90人か100人があそこで火葬になった。

  • Q 艦砲の翌日はどうでしたか。

    • 石川でも菅谷だのあっちの方にみんな逃げたんだよ。米軍が上陸だの何だのって、逃げたりした人がいくらもあったでしょう。

  • Q 艦砲後に役場がしてくれたことは。

    • 罹災証明書。これで配給の時に甕一つと七輪もらった。

  • Q 見舞金はどうですか。

    • 線香代っていくらかくれたんだって。

■証言2

  • Q 部落の防護組織についてお聞かせ下さい。

    • 空襲に際しては今の防火訓練を主としてやってたんです。防空頭巾とかぶってパケツのリレーの訓練を主としてやってました。

  • Q 訓練にはほとんど全部の家が参加していたわけですか。

    • 夫人を主としてね。当時大島部落は60世帯ぐらい。たしか1戸1名ぐらいで訓練はしていたわけです。なかなか全部集まらないので実際には少なかったです。

  • Q 強制ですか。

    • 非常時でたびたび空襲があるので、強制っていうより誰もが自主的に参加する気持ちになっていたんでね。

  • Q 警防団と防護団とはどういう関係ですか。

    • 警防団が主体になって、防護団は非常時の場合の主として災害おける婦人団体の指導っていう組織になっていたと思う。

  • Q 東石川の警防団はいつごろできたんですか。

  • Q 訓練を始めたのはいつですか。

    • 戦争はじまったのは16年12月8日でしたね。その後空襲っていうことに関連して警防団の活動が活発になったような気がします。

  • Q 警察といろいろ連絡をとることはなかったんですか。

    • 空襲の時には警察が主体で…。空襲があるようになると、警防団が警察の詰所に詰めてました。警察だけでは地方と連絡がうまくないので、消防団からも交代に電話係で行って、各地区の警防団の詰所に団員が待機して警察の方と連絡をとってました。

  • Q 待機してたのはどなたですか。

    • 警防団全部交代でやってました。毎日だれかは詰めてました。

  • Q 空襲警報の発令が頻繁になってきたのは何年の何月頃ですか。

    • 昭和19年のはじめごろから空襲警報は発令されたと思います。空襲警報が発令前に、警戒警報という予報がでます。その期間中は警戒警報期間中だという札を掛ける。空襲警報になると夜間は燈火管制で2個以上はつけないでということになっていました。空襲の場合に一番注目になるのが明かりというので。

    • 地区内の警防団員は定員50人で大島でだいたいその半数ぐらい。今考えると、だれもが部落を守る気構えでいたから、少しは無理なことを言っても不平不満いう人なかった。

  • Q 警戒警報が発令されたことはどうやってわかるんですか。

    • 会社でサイレンが鳴るんです。工場のサイレンが早いです。

  • Q 艦砲射撃をうけた時はどういう連絡を受けたわけですか。空襲と違うわけですけれど。

    • 警防団が勝田派出所に詰めてたわけです。それで日立が艦砲射撃をうけたことを知りました。それが11時すぎ。本部から伝令がきたわけで、今ではなくなったお茶園の木の下に第一発を受けたわけです。

  • Q 伝令はどういう内容を伝えたわけですか。

    • 一番初めは勝倉社宅のあたり落ちたっていう人もある。勝田署の前に落ちたっていう人もある。まちまちなんだね。実際伝令が来ると同時に大島へぶちこまれたわけ。

  • Q 日立の艦砲射撃の音は聞こえなかったんですか。

    • 聞こえました。空襲譬報っていうか、飛行機でないから非常体制でだれもが緊張して。そこへ伝令が来たので、そのうちに第一発が来た。同時に真暗になってしまった。

  • Qそれからどうしましたか。

    • 艦砲射撃が終ってから大島地区内に弾がいくつ落ちたかを調べた。大島地区内に落ちた弾の場所を役場へ出せば食糧増産の意味で補償料が出た。ささいなものだが補償が出るので申請を出した。大島地区だけで167発あった。

    • うちの裏山は、ほとんど立ってる木がなくなった。残っていた木を切ったが、製材所に持って行くと、破片が入っていて製材所では持っていくと断わられた。のこぎりにかけると歯が欠けるから。

  • Q お茶園のところまで来た時に一発目が来たというんですが、本宅におられたわけですか。

    • その時は11時50分でその前に赤ランプをつけた飛行機が通った。それが目標を海上へ連絡したと思うんだが、赤い玉を落して飛行機が行ったら間もなく…。私は艦砲の時家にいたんだよ。

  • Q 艦載機は20日は来てたんですか。

    • 合同葬をやってる最中にも飛行機が飛んでたので、法事もそこそこっていうか、坊さんも法事はしたにしてもだれも落ち着きがないから。

  • Q 8月に入ってからもそういう雰囲気でしたか。

    • 終戦前はずっと昼間はある程度様子を見るが、3時にみんなぞろぞろぞろぞろ、どこさ行くってあてもなく、手荷物ぐらいかかえて地元が恐しくなって避難する。

  • Q 終戦の時までそれが続いたんですか。

    • それで8月1日は水戸の空襲です。水戸は3分の2ぐらい焼けたんです。それで今度は勝田もやられるって仕事どころじゃなくて、自分の身のおきどころに苦労したわけです。

  • Q 艦砲をうける前までは日本は勝つと思っていましたか。

    • だれもが勝つためだという気持ちは持っていたが、実際竹やり訓練だなんていうことに至ってはとても。艦砲の後すぐさま敵の上陸、アメリカの兵隊は湊沖から上陸するというので艦砲後は精神的にだれもがおろおろしていた。

  • Q 艦砲があった時には敵が上陸する前触れというような。

    • 兵隊に行ってきた人が悪宣伝ではないが、我々が占領したときには食糧を強奪したとか、一番食糧を確保したという話をする。で、上陸されると一番に食糧は強奪され二番目に婦人の暴行だという。そういう悪宣伝も出たわけです。

    • Q ほっとしたっていう気持ちじゃないわけですね。

      • 昔から「餓死に会うとも乱に会うな」っていうことを、例えごとにいっていたが、戦争場になることほど、みじめなことありません。艦砲後に仕事する人なくなったんだが、外野に行くと農事の作業をやってたんだからね。大島では、だれ一人やる人なくなっちまったんだから。やっぱりショックっていうか。

勝田市史料 勝田艦砲射撃の記録より

 

その昔ひたちなか市にも艦砲射撃による戦災があった_1

ひたちなか市は1945年7月17~18日にかけて小雨降る真夜中に艦砲射撃による攻撃を受けました。
7月14日に岩手県釜石市を攻撃したアメリカ艦隊は、南下して日立市ひたちなか市の軍需工場に砲弾を撃ち込みました。その大半が目標を外れて市街地に落ち、多くの死傷者が出ました。
そうした記憶が薄れていく中、その記録を掲載していきます。

艦船砲撃調査団報告書(Report of Ships' Bombardment Survey Party Enclosure)

概要

日本の本州東海岸、東京の北東80マイルにある日立地区の選択された目標に対して、1945年7月17日から18日にかけてウィスコンシンミズーリアイオワノースカロライナアラバマアトランタ、デイトン、および9機の駆逐艦からなる任務部隊34.8.2が砲撃した。駆逐艦は砲撃しなかった。
戦艦3隻が日立兵器工場に224発、戦艦2隻が日立製作所水戸工場に144発を撃ち込んだ。軽巡洋艦2隻は6インチHC弾292発をひたちなか市磯崎のレーダー局へ向けた。総発射数は16インチHC1,238発、6インチHC292発であった。
発射は23:14から00:11にかけて行われ、悪天候のため発射地点への接近時の正確な航行が妨げられ、飛行機によるスポットや照明の予定が立てられなかった。
砲撃の間、北方約6マイルで英国機動部隊が単独で行動していたが、この部隊に割り当てられた目標は不明である。日立の北約8マイルのこの付近で未確認の大口径弾丸の落下が発見されたので、日立製作所の高萩工場であったかもしれない。
日立地区は、6月10日の海岸工場へのB29集中攻撃、7月19日の市街地への焼夷弾攻撃、7月26日の銅精錬所への超大型爆弾投下を含むいくつかの小空襲の影響を受けている。日立の南方約20マイルの水戸は、8月1日の焼夷弾による空襲でほぼ完全に破壊された。
(略)

日立製作所水戸工場の南側には兵器精密機器課があり、ターゲット情報では隣接する日立兵器の一部と誤って指定されていた。水戸工場では電気機関車、単装砲、単装砲用コンピュータおよび電気照準器、カタパルト、ロケット、爆弾、特殊鋼などを生産した。1942年以前は工場のキャパシティが生産の限界だった。1942年、熟練労働者の入手が困難になり始めた。1945年初めにはコークスと合金鉄の供給が危うくなったが、それ以上に重要なのは熟練労働者の不足、労働者の勤怠と効率の低下、停電の制限による工場効率の低下でこの時点で生産を制限していた。
地上砲撃では、144発の弾丸の標的であったはずの工場の中央部と北部の工場境界に弾丸は落ちなかった。日立兵器として発射艦に指定され、224発の弾丸が向けられた兵器精密機器課の境界内には11発の弾丸が落下していることは前述した。2発が建物に命中しニアミスで様々な被害が発生した。工場外の住宅地では35棟が倒壊し、その他多数の建物が損壊した。
砲撃を受けなかった日立製作所水戸工場の中・北部では、砲撃と8月1日の焼夷弾攻撃による労働者の士気の低下と、焼夷弾攻撃による住宅不足の累積により、生産停止となった。精密機器・兵器課は砲撃のため生産停止。もし戦争が続き、水戸への空襲がなかったとしたら、ここでの生産損失は、攻撃前の生産量で4ヶ月分以上と日本人は見積もっていた(当時、重連装砲の日本総生産量の1ヶ月分の少なくとも20%を含む)。
日立兵器では、92式、97式7.7mm機関銃、2式航空機用20mm機関銃、4式単三機関銃が生産された。1941年10月から1942年末までは生産スケジュールが達成されていた。1943年には工作機械が不足し、生産に支障をきたし、1944年と1945年には工作機械と熟練労働者の両方が不足し、さらに支障をきたした。戦争後期には一時的な生産停止や、外部から受け取る鍛造品やその他の部品の受領の遅れによって、生産が頻繁に中断された。1945年6月10日の海岸工場への空襲の後、直ちに分散計画が開始され、分散された機器について3ヶ月の間に約75%の生産損失をもたらすと予想された。地表からの爆撃では、60発の弾丸が工場敷地内に落下し、うち7割が建物に命中した。64棟のうち、4棟が破壊され、1棟が損傷により解体され、14棟が損傷した。工作機械の約20%が破壊または破損したが、破損していない工具の多くは訓練にしか使えないので、これは生産に使える工具の約40%に相当する。92式機関銃の生産は地表からの砲撃を受けて停止したため、新しい場所での生産開始が少なくとも2ヶ月遅れ、破壊された工具に代わる新しいドリルプレスを入手できない限り、生産は約80%に制限されることになったであろう。
4式機関銃の生産は砲撃により完全に停止し、戦争が続いていたならば、1946年1月1日頃までに分散前の生産量の50%を達成することはできなかったであろう。砲撃による99式及び2式機関砲の生産損失は、分散前の生産量の約1ヶ月分に相当すると推定される。砲撃による物的損害は、日本側では総計33,163,631円のうち約18,000,000円と推定される。しかし、前者は再調達原価に基づくものであり、後者は減価償却費を控除した物的資産の総価値であると思われる。したがって、被害額の比率は、これらの数字が示すよりもかなり小さいといえる。

Report of Ships' Bombardment Survey Party Enclosure
国会図書館のデジタル資料からDeepLで翻訳・抜粋

着弾点

虎塚ちゃん

虎塚ちゃん
いつの間にか虎塚古墳擬人キャラクター「虎塚ちゃん」が誕生していたんですね。
展示関係でいろいろ活躍の場を拡げていくようです。
デザインは古墳にコーフン協会茨城支部長のヨスミナミさんの手によるものです。