佐竹氏の支配と国替

戦乱にあえぐ農民 石神後鑑記

 天正年間は、日本歴史上では、長い間うち続いた戦乱が豊臣秀吉によって、全国統一をなしとげられた重要な時期にあたる。常陸国でも佐竹氏が領国統一に成功するのは、この時期である。しかし、統一のための最後の激動にまきこまれた武士、土豪層たちは、親子兄弟を戦場で失い、神社や寺院は炎上し、家を焼かれた農民は苦難の日々を送るのである。市域周辺における天正の大乱は、石神城の合戦からはじまる。
 天正5年(1577)5月、石神城は、額田小野崎氏の攻撃をうけて落城したと伝えられている。『新編常陸国誌』には、石神城と城主石神小野崎氏について、つぎのように記している。延徳元年(1489)奥州の諸将が佐竹領に攻めこんで、佐竹義治を小里の深来(現久慈郡里美村上深荻)に包囲したとき、義治の身替りになって死んだ小野崎通綱の子、通老に石神の地350貫、川合(現常陸太田市河合)の地350貫、合計700貫の地を与えて石神に居住させた。通老は小野崎越前守といい、石神とも称したが、天文9年(1540)12月28日に没した。そのあとは三郎通長がつぎ、大蔵大輔と称した。天文中に額田の城主と所領の境界の事によって争論があり、佐竹義昭は通長を助け、江戸忠通は額田に加勢した。通長が天正10年(1582)3月3日に没すると、通実があとをつぎ讃岐守と称した。通実は文禄4年(1576)6月14日に没し、常通があとをつぎ尾張守と称した。慶長7年(1603)、佐竹義宣にしたがって羽州におもむいたので、城は廃墟となったとし「近世に岡部玄徳という者が『石神後鑑記」を著わして、通長と額田の城主との戦闘の事を配している。しかしその内容はみな牽合付会で、一つも用うべきものがない」と注記している。
 「石神後鑑記」は、石神氏と額田氏の合戦の原因について、つぎのように述べている。天正4年(1576)の秋、小野崎通長は永年の習值を無視し、久慈川の水底に隠留を敷設して、額田への鮭の遡上を遮断したので、額田方の憤激を招いた。これに続いて通長は、額田城主小野崎照通の妹に不当な結婚を申込んで額田方の反感を挑発した。さらに、額田方の小者2名が、酔興の上で仕でかした事をとがめて極刑に処した。そのため合戦となって石神方は敗北し、石神城主通長は天正五年五月、自刃したというのである。しかし『新編常陸国誌』は「長松院旧記」や過去帳を引用して、小野崎通長は「天正十年三月三日没ス、法名天応長英」としており、合戦の原因についても物語の域をでない。だが、天正五年の石神城の合戦は、まったくの作り話ではないようである。
 太田増井正宗寺蔵本の「小野崎・江戸両氏系図」によれば、通長について「久三郎越前守、蔵人大輔、大蔵大輔、天正五丁丑五月十三日、額田石神合戦之時、額田照道為二落城ス」と記している。したがって、石神城は落城したが、城主の通長は生きのこったということも考えられる。また「水府志料」には、高野村に館を構えていた清水但馬守が「天正五年丑五月、額田氏石神城を攻る時、これに従ふ」とある。高野の清水氏が額田小野崎氏の家臣であったことは事実なのでこの伝えは正しいのかもしれない。同じく「水府志料」には、石神内宿村にあった石神城が、「天正五年の頃、額田城主と相戦ひ、同年五月、落城と申伝ふ」とあるので、天正五年五月に額田小野崎氏と石神小野崎氏の間に、決定的な争いが生じた疑いが強い。
 「松本家由緒覚書」には、額田小野崎氏に仕えて、高場村に永楽10貫の地を与えられていた松本筑後泰直が、(東海村石神長松院境内)「先年額田殿と石神殿確執出来、及ー戦石神殿方打負被レ成候之節、松本筑後泰直額田殿方江加勢に被レ頼、出陣仕候……」
とあり、石神城の合戦に出陣して活躍したことがみえている。したがって、この合戦には高野、高場の武士、土豪が額田方に加势して出陣したのである。「平井家系図」には、天正5年5月11日、石神城主小野崎越前守と額田城主小野崎下野守が合戦のとき、金上城主金上明晩は平井隼人正朝勝を大将とし、西野豊後守、同丹後守、鴨志田治部左衛門、野田河内守、清水蔵之介、石川左衛門、墻清左衛門、飯田甚兵衛、小野新兵衛、石川小平太、赤松円蔵、同嘉平太、城野佐左衛門、同左司右衛門、勝邑刑部、同治部左衛門、春秋平司右衛門、同平介、大房地源助、伊勢善治、小泉平治右衛門らを石神城に派遣したとあるが、真偽のほどは定かでない。

境界をめぐる争論

 『新編常陸国誌』は「園部信俊并状」を引いて、天文中に額日城主と石神城主が、所領の境界の事から争論をおこし、佐竹義昭は石神の通長を助け、江戸忠通は額田の就通を応援したと記している。そこで、天文中におこった所領争いは、一時和解したが、実際には、天正5年5月の額田小野崎氏の石神城攻撃まで続いた、とみる説もある。
 石神城の合戦が、所領の境界争いからおこったのは事実である。石神小野崎氏の所領は、久慈郡河井の350貫の地と那珂郡石神の350貫の地であった。「水府志料」によれば、小野崎越前守通長は永楽300貫の地、白方、豊岡、内宿、外宿など石神の地すべてを領していたといわれている。ところが、佐竹の乱のとき額田の小野崎下野三郎は、それまで佐竹領であった高野、須和間、竹瓦、白方などの地を押領したのである。石神小野崎氏の本拠地に隣接するこれらの地を、額田小野崎氏が所領としたため、まもなく境界争いが生じるのである。とくに、白方の地は、もとは佐竹氏の料所(直轄領)であったが、白方の寺家、社家、船方などを小野崎越前守が奪い取り、小野崎下野三郎もこの地を押領したので、石神、額田両氏の分割支配の形になっていたのである。ともあれ、天正5年5月の石神城の合戦は、額田小野崎氏の勝利に終わったようである。石神城の合戦からもどった、高場の松本筑後泰直らは、休む間もなく、その年の9月には、下野小山城にせまった北条氏政の軍勢をむかえ討つべく、小山の陣に出動するのである。

額田の乱
戦火のなかの村むら 社寺炎上

 天正16年(1588)12月、江戸但馬守重通の重臣神生右衛門大夫は、同じく重臣の地位にあった江戸通澄と対立して合戦となった。12月5日、江戸通澄は神生氏の屋敷を急襲したが、右衛門大夫は危うく難をのがれて大部(現水戸市飯富町)の館にもどり、翌日反撃に転じた。江戸重通は、江戸通澄を応援し、子息の小五郎通升を大部の神生館攻撃に遣わした。ところが、通升は神生氏に討たれて戦死し、そのほかにも江戸氏一門で討死する者が多かった。しかし、神生氏の必死の抵抗も、江戸氏の軍勢を支えることができず、右衛門大夫は額田城の小野崎照通を頼って逃げこんだ。江戸重通は小野崎照通に、神生氏の引渡しを要求したが、照通は拒否したので合戦となった。
 天正17年4月18日、江戸重通が平戸弾正忠と鳩田中務少輔らに宛てた軍勢催促には、額田を攻撃するので、足軽、鉄砲、弓、鎚のほかに、人別の足軽に鍬取、鎌持、まさかりなどを、それぞれー両人ずつ付けて集めること、また、中妻の境目が不穏なので、そのあたりの人数と鉄砲を集めさせること、上野、長岡、大戸(現東茨城郡茨城町)の兵をひきいて、今晩から河和田城の守備にあたることを命じている。このように、江戸氏の額田城攻擊には、かなり大規模な作戦が展開されたのである。佐竹義重は額田小野崎氏が佐竹氏の家臣でありながら、しばしば佐竹氏に反抗してきたので、これを倒して領内を統一しようとはかった。
 そこで江戸氏を援け、一族の東荏久を派遣して額田城を攻碧させた。佐竹氏の介入によって、この戦いは、額田の乱とよばれる大きな争乱に発展したのである。
 額田の乱の具体的な史料は少ないが、「石井弥右衛門覚書」には、つぎのように記されている。
天正十六年額田御攻之時、私曾祖父石井彦十郎忠拾五歳二而初陳仕、敵四五人懸来候内、士它人深田へ借入候所を伝忠追懸、鐘二而突仆首を掛ン与致候所二、其時之侍大将真崎兵庫、彦十郎高名見留候、難所二候間、早々引取候様二と下知被レ致ニ依テ則引取申候故、首者取不申候、併右之所々御帰陳之上、兵庫具二申上候二付、御褒美二御金被レ下置候由、申伝候御事」
 この伝えによると、15歳で初陣の石井彦十郎伝忠は、佐竹方の侍大将真崎兵庫の手に属して、額田城攻撃に参加したのである。また、「大部又左衛門家伝書」にも、大部氏の先祖は佐竹氏の譜代の家臣で、深荻(現日立市中里町)にいたが、「額田御退治之節、私曾祖父大部蔵人俊忠、深荻拾五騎之内二而罷出候由、申伝候」とある。同じく「大部由記家伝書」には、額田城攻略の状況をつぎのように伝えている。
 「其時之侍大将二ハ佐竹中務丞義久、戸村摂津守義和、都合其勢三千余騎、額田之城工押寄然ル所二城内ヨリ敵四五拾人出、大手之橋板ヲ引外ント青山四郎左衛門卜云者奉行二テ下知シケル所ヲ、御方之御軍勢之内ヨリ大部安之丞兼通、深荻十五騎之粗子之者トモヲ召連、先懸仕敵二橋ヲ引セシト、着詰引詰透間ナク射懸ル、安之丞カ放矢ニ四郎左衛門カ内甲射立ケル、大事之手所ニテヤ有ケン、馬ヨリ下ヱ倒ケル所ヲ安之丞走寄テ、青山カ首ヲ取ル、拾五騎之者トモ城際近ク押寄入乱レ戦ケル所二、城内ヨリ是ヲ見テ大勢ニテ討テ出ツ、御方之御軍勢、雲馥ノ如ク懸寄攻戦処二、摂津守義和之手二金砂之別当東清寺、其外坊中弐拾坊余召連相働、粉骨ヲ尽惣軍勢城ヲ攻事三日也、御方エ討取頸数百八十五、討死百拾三人卜承ル」
 額田の乱では、市域の武士たちも合戦に参加し、討死する者や戦功を立てた者がいたのである。まず、高野の清水但馬守と高場の松本図書泰正は額田方に属して戦ったが、三反田の打越彦三郎は江戸氏に属して戦い、向山の窪(現那珂郡那珂町向山)で、額田方の川井主水、松崎大学らに取かこまれて討死している。また、江戸但馬守の家臣で、三反田に知行地をもっていた谷田部治部少輔の惣領谷田部弥八郎も18歳で額田城攻撃に参加し、額田の岩井窪で討死する。同じく江戸氏の家臣で勝倉にも知行地をもっていた市村治部少輔も、江戸重通の御供をして、額田の陣で働いている。市毛に居住していた市毛藤衛門盛幹も、額田城主小野崎照通と戦って破れた、と伝えている。
 額田の乱は、天正17年5月9日、江戸、佐竹両氏と額田小野崎氏との間に和睦が結ばれた。5月11日、江戸重通は打越刑部少輔らに「額田において討敵の動比類なく候」という感状をだし、戦功を賞してい机。神生右衛門大夫は結城にのがれさり、江戸重澄も5月20日に没した。この乱によって、額田から向山、本米崎、田彦、稲田、外野、津田、堀口などの村も戦場となり、社寺は炎上し、農家は焼けて、農民は大きな被害をこうむったのである。「開基帳」によれば、額田村の観音寺や梅松院は「額田一戦之時分致炎上候」とあり、本米崎村(現那珂郡那珂町本米崎)上宮寺も「佐竹義重額田一乱之刻炎上仕」とみえる。また、田彦の安養院、稲田の今鹿島明神、津田の鹿島明神、堀口の高徳寺、観音寺なども額田の乱で炎上したことを伝えている。
 「鴨志田家旧記」にも、外野八帽宮は天正歳中の大乱で焼失したが、戦乱の時世のことなので棟上げなどもできず、外野村で仮の社殿を造立したことがみえる。また、佐竹義宣の額田城攻めの時分、鴨志田氏の守り本尊を安置してある観音堂に、系図、記録、書付などを箱に入れて率納していたが、御堂もろとも焼失したことを伝えている。鴨志田家の屋敷内に建てられていた観音堂には、守り本戦の十一面観音が安置されており、まもなく観音堂を再建したが、徳川光囲の寺院整理で潰され、十一面観音は寺沼(現那珂郡東海村照沼)の如意輪寺に、寄仏とすることを命じられている。したがって、この「鴨志田家旧記」の内容には信憑性がある。
 額田の乱にさいして、なぜ、このように広範囲におよぶ地域の神社や寺院が焼けているのであろうか。この結果からみると、少なくても、額田小野崎氏や佐竹、江戸氏らの軍勢が、寺社を積極的に戦火から守ろうとした動きはない。むしろ、社寺はねらい打ちに放火されている感じさえうけるのである。織田信長は全国統一をすすめる過程で、延暦寺本願寺をはじめ有力寺院に対し、その政治的、軍事的な権力を奪い取るために、焼打ちや合戦などによる武力征服を重ねていった。信長のあとをうけた豊臣秀吉も、有力寺院のもっていた寺領や武力を没収し、その寺領を朱印地として再交付する形をとって、宗教的な権力を手中におさめたのである。天正年間の武将たちの社寺に対するこのような意識は、常陸国内の統一をねらう佐竹氏などにも共通していたにちがいない。
 農村の社寺の経営を独占して、農村をしっかり掌握していた武士、土豪層の手から農民を引きはなしてしまう、いわゆる、兵農分離政策をすすめるためにも、戦乱にまぎれての社寺の放火は予定の作戦だったのであろう。

佐竹氏の地位確立
佐竹氏の水戸城攻撃

 天正18年(1590)5月、佐竹義宣は東義久、北義憲、南義理土八戸四郎、太田景資、額田従道、嶋崎、長倉義興、真壁氏幹、茂木治良、小場義成、干本などの一族や、指揮下の諸将をひきいて小田原に参陣し、北条氏政を攻撃中の豊臣秀吉に拝謁した。この参陣によって、豊臣政権下の佐竹氏の地位が保証されたのである。自らの運命のみならず、歴史の流れを左右するほど重要なこの機会をのがした常陸の諸将も少なくなかった。水戸城の江戸重通や府中城の大掾淸幹らは、秀吉の動員令に応じず、小田原参陣をしなかったのである。
 北条氏政は、秀吉の小田原攻めにさきだち、江戸、大掾、小田氏をはじめ、常陸南郡の諸将を北条方にさそい入れて盟約を結んだといわれている。そのため、これらの諸氏は秀吉の動員令に応じなかったのであろう。『常陸誌料』によると、3月に小田原動員令が伝えられたとき、江戸氏の家政がすこぶる乱れて、家臣の意志統一ができなかった。その後、上野、武蔵などの北条方の属城が相ついで陥落するのをみておそれをいだき、家臣の武熊通顕に手兵百余騎を与え、小田原に参陣する佐竹義宣にしたがわせたが、江戸重通自身は動かなかったという。
 7月に小田原城が陥落すると、秀吉は、佐竹義宣につぎのような朱印状を与えた。
常陸国下野国之内所々、当知行分弐拾老万六千七百五拾八貫文之事、相添二目録別紙-令二扶助一之訖、然上者、義重・義信任ニ覚悟〔 全可レ令二領知一者也
天正十八年庚寅八月朔日 (秀吉朱印) 佐竹常陸助殿」
 この朱印状によって、佐竹氏は、本来の根拠地である奥七郡をはじめ、江戸氏領や行方郡、鹿島郡などの常陸南部や、下野の一部をふくめた支配権が承認されたのである。ここに、佐竹氏は豊臣政権下の大名としての地位を確立し、以後は、秀吉の強力な権威を背景に常陸国内の統一を強行するのである。
 市毛原、勝倉台の激戦佐竹義宣は、江戸重通の本拠である水戸城を新しい領国経営の拠点にしようと願っていた。しかし、江戸重通が義宣の要求を拒否したため、水戸城攻略を決意するのである。ところで、「水府系纂」には、江戸氏の家臣飯島縫殿元行が天正18年、江戸但馬守重通と佐竹義重が合戦のとき、常州勝倉の台で7月14日に討死したとある。また、「平井家系図」や「金上系図」によると、金上弾正明直と明村は、天正18年8月15日に武田原で佐竹義宣と戦って討死、金上城は落城して家臣の横山民部少民林、菊地仁左衛門高元、川井伊勢守惟久、瑁治部少輔明清、木村右京大夫義清、宮井雅楽頭明基、関口九郎左衛門是治らの7人も討死したことを記している。佐竹氏の水戸城攻撃は、諸系図類では、12月19日とするものが多い。したがって、7月14日や8月15日に勝倉台や武田原で、合戦があったとは思われない。また、傍証史料もないのである。佐竹義宣は秀吉から領国支配の朱印状をもらった8月ころから、水戸城攻略の決意を明らかにしていたといわれる。しかし、秀吉から朱印状を与えられた礼に上洛するように命じられていたので、義宣は真崎重宗と和田照為らの重臣に江戸氏領と行方郡の仕置をゆだね、11月末ごろに上洛の途についた。したがって、11月以前には、江戸氏に対する攻撃は、まだ開始されていなかったとみるべきである。
 天正18年12月19日、佐竹軍は二手に分かれて水戸城に進撃を開始した。義重のひきいる一隊は、太田から村松にすすみ、そこから市毛原にむかった。江戸重通は急ぎ100余騎をひきいて那珂川を渡り、市毛、中台に対陣したが、市毛の陣が破られ勝倉に後退した。まもなく枝川重氏などの兵100余騎も集まり、勝會台で激戦が展開された。勝倉台の合戦で、江戸氏方は谷田部大学介重元、同兵部少輔弘胤親子、春秋上野八郎、汗越左京亮、出沢大隅守、小田部式部、大高山城守、都四郎左衛門、館民部少輔、同主殿助兄弟、広沢大学助、樫村孫左衛門、山本帯刀、飯島縫殿、小島勘解由左衛門、和田三郎四郎、玉内宮内少輔、後藤修理、海老沢四郎右術門、平戸五郎右衛門、小沢平右衛門、墙介左衛門、同甚五郎親子、平戸左馬允、笹島小四郎、枝川弥五郎、猿田新七郎、益田四郎左衛門、篠原蔵人、谷田部志摩守通明らが討死し、谷田部治部少輔通直が、重傷をうけて後退するという有様であった。「椅塚村本行寺過去帳」にも、天正18年12月19日に、当国勝倉台で笹島小四郎重道が戦死したとあり、この合戦の史実を伝えている。また、「水府系纂」にも、 谷田部大学介重元と兵部少輔弘胤か、12月19日、勝倉において佐竹勢と奮戦して討死したことを伝えている。

水戸城落城

 勝ちに乗じた義重の兵は枝川館に放火し、那珂川を渡って水戸城の天王曲輪に突入した。これに対し、義宣の本隊は、太田から久慈川を渡って後台から青柳を通り、神生平をへて水戸城に攻め入り、城内に放火した。江戸重通も城内にもどって、必死の防戦につとめたが傷を負い、子息の実通をともなって千波にのがれた。このとき、谷田部中務少輔重脱は、裸背馬にのって浄光寺口より城内にこもろうとしたが、土橋の下にいた義宣の伏兵に槍で襲われ、多勢にかこまれて討死したと伝えられている。
 翌20日、義宣は将士を分けて、江戸氏一族の根城13館8か所を焼きはらい、ついに、水戸城は落城したといわれている。重通は自殺しようとしたが、家臣の武熊主水、外岡出雲介らにとめられ、常井、近堂村をへて結城に落ちのびることにした。住吉の原にきたとき、出沢加賀守、島羽田越中守、同大学助や南郡の諸勢力が集ってきたので、河原井の禅院に入って休息し、そこで諸兵に暇をたまわり、子息の実通、武熊主水の3人は、大塚、平塚をへて、21日の明け方、黒子村に着き、外岡出雲介の縁者の家に宿泊し、22日、結城城下に入って、結城晴朝にむかえられたといわれる。重通は結城晴朝の娘を妻にし、さらに、自分の娘を晴朝の養女としていたので、両者の結びつきは強かったのである。重通は結城にいること8年、慶長3年(1598)43歳で波乱に富んだー生を終わった。
 水戸与力西土佐衛門所伝の記に、水戸城陥るときの狂歌として、つぎのようなものがあったという。
「極月ヤ十九立合軍セズ、アスノ日ノ出ハ、城ノ落ヤシ常磐ナル固メモヤブレ城モ落チ、勝倉マデモ、マケテ遁倉江戸殿八軍二マケテ、ミトモナイ、敵二後ヲミセテニケ道」
 水戸城の落城によって、江戸氏の時代はすぎ去った。『常陸誌料』の編者宮本茶村は「江戸氏譜」を終わるにあたって、つぎのように記している。
 「江戸氏那珂五郎通泰より始まり、江戸郷を食し、重通に至って水戸を失うまで十一世、二百七十年なり、通高祖河辺大夫通直常陸に居りしより凡そ二十世、四百八十余年と云う」
 こうして、江戸氏の時代は終わった。しかし、江戸通房が大掾氏より、応永末年に水戸城を奪取してから160余年、7代にわたる、水戸城を中心とした江戸氏の支配は、勝田市域の武士、土豪層や農民にも大きな影響を与え、その歴史を後世に残したのである。

佐竹氏の支配と国替
領国統一と軍役負担

 水戸城を占領し、江戸氏を滅亡させた佐竹氏は、その勢いで大揉清幹の府中城を攻撃して淸幹を自殺させた。ここに平安時代以来の常陸国の名門大揉氏も滅亡する。さらに、義宣は天正19年(1591)2月9日、常陸南部の鹿岛、烟田、中居、玉造、行方、手賀、嶋崎、相賀、小高、武田などの大掾一族を、会盟にことよせて太田城に招き、一挙に謀殺してしまったと伝えられている。ついで2月23日には、額田城に攻撃を加えた。小野崎照通は野上河原で佐竹軍と戦ったが、破れて伊達政宗を頼り陸奥に落ちていった。
 領国統一をなしとげた義宣は、3月20日水戸城に入城した。しかし、6月20日には陸奥九戸政実の反乱鎮定のため、秀吉より2万5000人という驚くべき数の軍役を割当てられて、その対策に苦慮するのである。9月16日、陸奥滞陣中の義宣に、朝鮮出兵の勒員令が伝えられた。文禄の役で佐竹氏に割当てられた軍役の人数は、5000人である。文禄元年(1592)正月、水戸城を出発した義宣は4月中旬に肥前名護屋に到着、そのまま滞陣し、翌年5月23日に渡海命令をうけて、1440人が戦場に向かった。やがて、和議が結ばれ、閏9月6日には水戸城に帰着した。ところが、文禄3年正月19日、秀吉から伏見城の惣構堀の普請をするので、2月10日までに人夫3000人を引きっれて上洛するように命じられるのである。こうした、たび重なる軍役の負担は、義宣からさらに、家臣や農民に割当てられたのである。また、佐竹氏は、座臣秀吉から軍役を命令されるたびに、家臣や般民に角力な統制を加え、領国内のすみずみにまで支配権を行使することに成功するのである。

太閤検地

 豊臣政権とその支配下にある大名が、家臣や農民に賦課する軍役、年貢などは石高を基準として徴発された。その基礎作業として、全国的に施行されたのが太閤検地である。佐竹領の検地は、石田三成の指揮により、文禄3年10月に開始され12月に完了した。検地は奉行の下に幾組もの検地役人が配属されておこなわれている。那賀郡上河内村(現水戸市上河内町)では、11月20日に、石田治部少棉奉行配下の藤林三右衛門によって検地がおこなわれ、那賀郡石神村(現那珂郡東海村石神)では、11月19日に、石田治部少輔奉行配下の山田勘十郎によって実施されている。おそらく、市域の農村も11月20日前後に、検地がおこなわれたのであろう。太闇検地の特色は、郡界や村界を定め、従来使われてきた庄名や郷名を公式に廃止し、村を行政の基本単位に定めたことである。以後、行政区画の呼び方は、たとえば、常陸国那賀郡足崎村のように、何国何郡何村と一定されるのである。また、田畑一枚ごとに土地の品等、面積、石高、作人名を村ごとに調査して検地帳を作成している。
 したがって、一筆ごとの石高を集計すれば村高がわかり、佐竹領内の全部の村高を集計すれば、総石高がでてくるのである。太閣検地による佐竹領の総石高は、54万5765石9升である。
 文禄4年6月、検地の結果にもとづき、佐竹義宣は、秀吉から54万5800石の朱印状を与えられた。朱印状には義宣の知行地15万石、義宣の蔵入地10万石、父義重の知行地5万石、一族の東義久の知行地6万石、ほかに代官徳分1000石、与力家来の知行高16万8800石、太閤蔵入地1万石、石田三成の知行地3000石、增田長盛の知行地3000石などが設定されていた。さっそく義宣は、与力家来の知行高16万8800石の知行割を実行した。市域の農村は、ほとんどが、東義久の知行地と義宣の蔵入地になっている。
 前述のように、「中務大輔当知行目録」によれば、稲田、上高場、下高場の地88石6斗5升9合2勺、沢村、堤村の地329石2斗7升7合、市毛の地231石3斗4升、外野、大島の地427石2斗1升5合、堀口の地130石7斗3升、石川の地114石9斗6升4合4勺、高野、須和間の地437石4斗7合、中根の地767石6斗8合、武田の地234石5斗2升7合7勺、馬渡の地268石8斗5合4勺、足崎の地655石8斗6升5合などがみえている。東遥久の知行地6万石は鹿島全郡と新治、筑波、茨城、那賀郡などにわたっているが、とくに、那賀郡の1万936石2升5合5勺の地は水戸城下に近く、水戸城の防衛をふくめた領国支配の中心地として重視されていたのである。那珂川流域の地が義宣の蔵入地になっているのも、そのことを物語っている。
 文禄5年の「御蔵江納帳」にみえる市域周辺の義宣の蔵入地は、青柳333石8斗5升(預り者、小貫大蔵)、枝川614石9升(預り者、大山采女)、勝倉937石4斗7升(預り者、貞崎卷後)、三反田150石(預り者、斎藤太郎衛門)、湊2113石3斗6升(預り者、真崎宣広)、平磯778石9斗4升2合(預り者、小貫太郎左衛門)などである。これらの蔵入地の管理をまかされた諸士は、義宣直属の有力な旗本層である。湊(現那珂湊市)が義宣の蔵入地として掌握され、旗本重臣真崎宣広に預けられているのは、那珂湊の港湾としての重要性によるといわれている。
 三反田、勝倉、枝川、青柳なども、那珂川の渡し場として交通要衝の地である。天正18年の佐竹氏の水戸城攻略では、勝倉、枝川の城館を攻め落とし那珂川を渡って天王曲輪に突入したのである。このように、軍事的にも重要な地点が蔵入地とざれ、旗本重臣に預けられたのである。三反田小学校南側の台端を「斎藤山」とよんでいる。那珂川を見下す道筋のこの地に、蔵入地を管理する斎藤太郎衛門の役所があったのかも知れない。

佐竹氏の秋田国替
93騎で常陸を去る 佐竹家中の動揺

 慶長5年(1600)9月の関ヶ原合戦にさいし、佐竹氏は表面上は、徳川家康派にも石田三成派にもつかなかった。しかし、それよりもさき、会津戦略中の家康が、義宣に忠誠を求めて証人(人質)をさしだすことを命じたとき、義宣は家康の要求をことわっている。そればかりではなく、8月5日には家康との対立を予想して、上杉景勝に援兵を求めているのである。これに対して上杉方では、「御加勢申請度との事に候条、此儀は深々請合、使者返し申候、可二御心安一候」という返事をだし、援兵の要請を承諾している。この点からみても、佐竹氏がひそかに石田三成に協力を約し、石田方と結ぶ会津上杉景勝と密約を固めていたことが知られる。この密約によって義宣は8月25日に、勝手に水戸に引返し、家康が上方に出動するのを背後から牽制したのである。しかし、関ヶ原合戦における家康の大勝利によって義宣の思惑は失敗し、今度は、密約が家康に知られたばあいの厳重な処分を恐れる不安な月日をすごすことになる。
 慶長6年8月24日、佐竹氏の盟友であった上杉景勝会津120万石から、米沢30万石に減封移転を命じられたが、佐竹氏への処分は、まだなかった。翌年3月7日、義宣は上洛し、さきに伏見城に入っていた家康や、大坂城豊臣秀頼に謁見した。そのときの首尾は上々で、秀頼様、内府様(家康)にお礼を申し、仕合せ残るところはないと、義宣はよろこびの手紙を国元に送っている。ところが、5月8日、突然、家康の使者榊原康政、花房道兼が伏見の佐竹邸にきて、領国を没収し、出羽のうちで替地を与えることを申渡したのである。この悲報は、まもなく水戸にも伝わり、佐竹家中に大きな不安と動揺をもたらした。出羽に国替といっても、出羽のどこに替地なのか、石高はどれだけなのかも不明であった? 一方、徳川氏の佐竹領接収がはじまった。6月9日、水戸城受け取りの正使花房道兼、島田利正が到着した。その後、譜代大名や旗本などの手勢がやってきて、水戸城をはじめ支城の接収がすすめられた。また、武力による監視のもとで、佐竹家臣団の退去と、領国の引渡しがおこなわれたのである。
 佐竹領の接収が無事終了したあとの7月27日、家康は正式の領地判物を義宣に与えた。それは、出羽国の内、秋田、仙北の両所を進め置いたから、知行するようにという内容であった。この命令を受け取った義宣は、7月29日に伏見を出発し、江戸でしばらく滞在ののち、常陸に立ち寄ることもできず、下野を経由して出羽に向かい、秋田には9月17日に到着したようである。義宣の供をした者は、わずかに93騎であった。重臣や近臣たちも義重らとともに家族をつれて下向したが、一般の家臣は厳しい制限をうけたので、移住は容易ではなかった。しかも、54万5800石から20万5800石の減封移転であったから、新参者や50石、100石取りの給人や、在郷に新開地をもつ給人は、秋田につれていかない方針をとった。また、譜代の者でも、これまでの扶持は与えられないという申渡しであった。しかし、主君のあとをしたって秋田に下る者は、慶長7年から数年後にまでおよんだ。なかには、兄は秋田へ下り、弟が親とともに郷里に残る者や、父が秋田に下り、子が居残る者もあった。どちらにしても、一家は離散の運命に見舞われたのである。残留の武士たちはそのまま帰農し、のちに、水戸藩に登用された者や、由緒ある冢柄として、農村の指導的地位に立つ者も少なくなかった。

市域における家臣の動向

 市域からも、秋田に下向した一族がいる。高野の清水但馬守は、額田小野崎氏の家臣であったが、額田落城後は佐竹義宣に仕えた。慶長7年の国替のとき、その子の伯耆守は高野に残り、弟の弥五左衛門が秋田に下向した。したがって、清水氏のばあいは、兄が親とともに郷里に残り、弟が秋田に下ったのである。佐竹氏の秋田移封から100年近くたった元禄中期に、秋田藩主が家臣の家系、家伝の乱れを正すため、家に伝わる文書類の現物や写しを提出させている。これが現在「元禄家伝文書」として、まとめられている。元禄10年(1697)に久保田居住の清水吉十郎の提出した「清水氏系図」によると、清水吉十郎の先祖、清水播磨守高通は、佐竹義重にはじめて仕え、その子の弥五右衛門高俊は、元和8年(1622)5月31日に46歳で秋田で没している。「家伝文書」では弥五左衛門が「弥五右衛門」とあり、その父を「清水播磨守」としているので、高野の清水但馬守と合わないが、どちらかの所伝が誤っているのであろう。それにしても、弥五右衛門は、15、6歳のとき親兄弟と別れて秋田に移住し、20年の半生をすごしたのである。勝倉の武石氏の同族も、秋田に下向している。大館居住の武石伝八が、元禄10年に提出した「武石系図」によると、武石伝八の先祖武石美濃胤定は、慶長年中に常陸より秋田に供奉し、久保田城の御草結びのみぎりに相勤め、慶長18年8月5日、86歳で没している。武石胤定が慶長7年に秋田に下向したとすれば、75歳の高齢で秋田入りしたことになる。胤定という人物は、忠義一徹の昔者だったとみえる。この高齢の父親を心配したのか、息子の胤家は3年後の慶長10年に秋田に入り、義宣に仕えている。胤定の子孫は伝左衛門を襲名し、大館六郎組下として忠勤を励むのである。
 こうして、佐竹家臣団の移住は終わった。佐竹氏の去った常陸には、秋田仙北地方の大名が入れかわって移ってきた。また、水戸城は慶長7年月、徳川家康の第五子、武田信吉に与えられ、市域の農村は、その家臣団の知行地として配分されるのである。治乱興亡400年、権勢に飽く無き支配者は、大掾氏一族、額田小野崎氏、江戸氏、佐竹氏と移り変ったが、農民はいつの世でも、郷土の山野を愛し、産土の森を守り、営々として田畑の耕作にいそしんできたのである。時は流れ人は去っても農民の生活は、つねに土とともにあったのである。

勝田市史(昭和50年)より