江戸氏時代の城館

城館跡の復原

 江戸氏が市域を支配した室町時代から戦国時代には、かなりの数の武士、土豪が城館を構えて農民を支配し、あるときは合戦にしたがい、また、農業経営に力を注いだ。市域の城館跡は「水府志料」や『新編常陸国誌』などに、その一部が簡単に紹介されているにすぎず、実際に市内を調査してみると、意外に多くの城館跡が草むらのなかに埋もれている。
 このうち、鎌倉時代から南北朝時代の城館跡と思われる市毛館、堀口館、武田館、新平館、藤佐久館、奥山館、深茂内館、中根城、多良崎城、高野の内城と小山城、佐和のリュウガイ(雄害)城、篠根沢館などの城館跡については、すでに述べたので、その他の城館跡を明らかにしてみよう。
 ところで、城、館といっても、それは通称であって、その性格に明確な区別はない。館はもともとは身分の高い者の邸宅をさしたが、鎌倉・室町時代には防備をかねた屋敷の意味に用いられた。それに堀や土塁などの防禦的施設が築かれて、防禦性が大きくなれば内容的には城になるのである。このように、城砦化した館を館城ともよんでいる。
 それから、たんに屋敷とよばれている遺構でも、防備のために周囲に深い堀と高い土塁を構えたものが多い。したがって、城、館、屋敷は、土地の人たちに伝承されてきた呼び名であり、いずれも共通する性格をもっているのである。
 また、勝田市域の城館跡のなかには、常陸大掾氏が勢威をふるった鎌倉時代から南北朝時代に築造されたものでも、その後室町時代から戦国時代にいたるまでに、領主が交替したり、改造されたものも少なくなかったであろう。

○勝倉城

景勝要害の城

 那珂川を眼下に見る勝倉城は『新編常陸国誌』に勝倉館址として、つぎのように記されている。
那珂郡勝倉村ニアリ、ー八フジ山卜云所ニアリ、大掾氏水戸二在シ時、此地二モ住セシ人アリ、其居館ナリ卜申伝フ、ー八城之内卜云所ニアリ、共二何人ノ居ナルヲ知ラズ、按二吉田社文書二、白方、多良崎、勝倉、市毛、武田、堀口、道理山、藤佐久等八、吉田ノー族ナリ、マタ大掾系図吉田太郎広幹ノ第四子勝倉四郎俊幹アリ、此人ノ居所ナルベシ」
 現在、勝倉幼稚園と勝倉小学校の敷地になっている富士山とよばれるところが、勝倉城跡である。この地よりはるかに富士山を眺めることができたので、富士山と名づけられたといわれる。このような景勝にして要害の地に、大きな土塁と深い堀を方形にめぐらした単郭の城郭が作られたのである。土塁の多くは小学校の敷地にするために崩されてしまったが、それでも西側の土塁はほぼ完全に残り、富士神社が祭られている南側の土塁の一部も残っている。これらの土塁を計ってみると、土塁の幅は約10m、高さは約3m、南北側の長さが約110m、東西側の長さが約65mの土塁がまわっていたことになる。
 東側の台地の突端部には、古墳を利用したと思われる物見塚がある。また、北東側には鍛冶山とよばれる地があるので、ここで武器の製造、修理がなされていたらしい。北側の土塁の中央部が切れているのは、ここが大手であったことを示している。おそらく、この入口に堅固なかんぬき門が設けられていたのであろう。この付近から小花文や唐草文のついた大形の鉢の破片が出土しているので、勝倉城が南北朝時代ごろには築かれていたことが知られる。
 前述のように、「鹿島大使役記抄記」によれば、南北朝時代後半の応安元年(1368)に、勝倉吉田氏は鹿島神宮の大祭使役を勤めているので、この勝倉城に居住していたことになる。しかし、その後の上杉禅秀の乱永享の乱によって、常陸大掾氏一族の勢力が大きく後退したとき、勝倉吉田氏がどういう動きをしたかが問題となるが、たしかなことは明らかでない。江戸氏の支配下に入って戦国時代をむかえるのか、それとも没落してしまうのか、肝心なところがわからないのである。
 「新編常陸国誌」や「水府志料」には、勝倉吉田氏の居館と伝えられているものが、城之内というところにもあるとしている。現在の勝倉には城之内という地名は失われているが、おそらく、勝倉溜池の東側にある勝倉台館跡とよばれている遺構がそれにあたるのであろう。地蔵根下ともいわれる
 平坦地で、西側には谷津が入りくみ、谷頭には石井戸という湧水があり、溜池が築かれている。また、東側にも大房地に達する谷津が入りくんでいるので、勝倉吉田氏が館を構えるには、格好の場所だったにちがいない。おそらく、吉田俊幹(勝倉四郎)は最初、この勝倉台に館を構えたが、その後、南北朝時代になって、治安が乱れたので防備を固めるために、勝倉城を築いて移ったものと思われる。
 永禄年間に飯島七郎という者が勝倉を領しており、永禄5年(1562)8月、相馬盛胤が多珂郡に侵攻してきたとき、勝倉台の館主飯島七郎は佐竹の軍師として戦ったという説がある。「佐竹秘録」に記された義重の代の家臣名簿に軍師として「小田原伊勢、飯島七郎、神長将監、藤弥衛門、安次郎兵衛、同次三郎、岡民部少輔」がみえる。「常陸遺文」所収の金上系図に、鎌倉時代の人に「飯島七郎頼明、勝倉藤山二居」とあるが、史料の信憑性に問題がある。永禄のころ、勝倉の地が佐竹氏の支配下にあったとは思われないので、たしかなことは不明である。
また、嘉禄2年(1226)7月に「平井越後守明綱始メテ勝倉城ヲ築ク」という伝えもあるが、明らかでない。

○金上城

 なぞの多い金上城は「水府志料」に、「館跡深二丈余の堀あり。四方に高土手矢倉の跡あり。堀より西を御城山と唱え、東を外城山と云ふ。何人の居なるを知らず」とある。金上城は那珂川北岸の沖積地に突出した標高約110mの台地の先端に築かれている。西側は小場江が流れる断崖で、東側には浸蝕谷が入りくみ、溜池(金上溜)になっている。
 城跡の北側は新屋敷、端城山とよぱれている。現在畑となっているこの地から、根固め石や礎石に用いた径15cmほどの礫が数多く出土している。また、真黒にすすが付着した内耳鍋や菊花文の刻印のある大理の口縁部、元銭の至大通宝などが出土している。したがって、ここに金上城の武士の屋敷があったことが知られる。
 外城山とよばれるニの郭の北側には、幅4mの堀切があるが、一部整地のため削られている。また、ここに長さ60m、基底幅10m、上面幅1.8m、高さ3mの土塁がまわっている。西側の崖縁にも長さ60mの土塁がまわっていたらしく、土塁の痕跡が残っており、新屋敷、端城山から二の郭内に通ずる小径がある。東側には長さ65mの土塁が崖縁にそっているが、熊野神社の石段によって一部が切断されている。土塁の基底幅は4m、高さは50cmほどである。
 二の郭の中央部に熊野神社の社殿があり、東側には深い人工堀によって外城と内城に分かれる。この深い堀は8字型をなし、上面幅15m、深さは西側より東側が深く12mにも達し、幅11mの堀底道が東西に通じている。
 内城山とも御城山ともよばれている本郭の南の突端には、物見台のような郭があり、那珂川に向って真南に「南無妙法蓮華経」と刻まれた天保7年(1836)の碑がある。この下の道を木戸前とよんでいる。この道は昔の浜街道で、前浜方面から金上城の崖端をとおって勝倉の渡しにぬけたのである。本郭の南側から東側の崖縁にそって長さ80mの土塁が鍵形に走っている。基底幅は5m、高さは90cmである。この南側の土塁と物見台のような郭との間に、本郭に入る小径があるので、ここが大手のようである。北側には長さ60m、基底幅15m、上面幅3m、高さ3mの大きな土塁が堀切にそって築かれている。西側に土塁がないのは、深い断崖になっているからであろう。
 現在、外城山とよばれているニの郭に熊野神社の社殿がある。熊野神社がここに祭られたのは、元禄9年(1696)であり、それ以前は八幡が祭神であった。おそらく、金上城主の氏神として、金上城付近の地に勧請されたが、廃城後に二の郭跡に移されたのであろう。「平井氏系図」によれば、金上城主であった金上明直が天正18年()に佐竹義宣と戦って討死したので、その子の明佐が成人の後に父の居城跡に古鎮守若宮八幡を祭ったと記している。しかし、たしかなことは不明である。
 金上城の北側に古い墓地跡があり、ここに、大きな菩提樹が生えている。後述のように、市域の城館跡や土豪の屋敷跡の近くにある古墓地の跡に、菩提樹が植えられていることが多い。この古墓地は、金上城主一族のものであろう。また、古墓地のさらに北側の地に金上不動尊がある。「平井氏系図」には金上城が落城して、金上明直が討死したとき、その子の明佐は母の襁褓(うぶぎ)の中に抱かれていたから抗戦することができず、ひそかに難をのがれて不動院に隠れたとあるので、金上不動尊と金上城主との結びつきが考えられる。しかし、金上延命院といわれるこの不動尊が金上に勧請されたのは、江戸時代になってからである。しかも、はじめは金上溜の上の向山の地に安置されていたが、村民の便を考えて村内中央に堂を構えたといわれている。
 金上城をとりまく遺構のなかで、とくに注目されるのは、勝倉境と三反田境の地に掘られた長大な堀跡の存在である。三反田側の堀を新堀、勝倉側の堀を二の堀とよんでいる。新堀は那珂川北岸の浸蝕谷に設けられた岡田溜の湧水点である谷頭から那珂湊ー勝田線の県道をこして中丸川流域の沖積地に至るもので、ちょうど三反田台地を掘切った形になっている。県道の南側に堀が良好な状態で残っているので実測してみると、場所によって多少の差はあるが、堀の上面幅は10mから12m、深さは2mから2.5mを有する薬研堀である。長さは700mにもおよんでいる。土塁は金上側の方に築かれていたようであるが、現在は崩されている。
 二の堀は勝倉大房地とよばれる那珂川北岸の浸蝕谷から、那珂湊ー勝田線の県道と茨城交通湊線の線路をこえて、大平の中丸川流域の沖積地に達している。湊線の線路の東側に良好な状態で堀跡のー部が残っている。堀の上面幅は10mから12m、深さ2mから11.5mの薬研堀である。長さは850mもある。二の堀も金上と勝倉の境を大きく掘切った形になっており、土塁も金上を防禦するように、金上側に高く築かれている。
 このように、金上の村落は、南側には那珂川流域の沖積地に達する崖縁、北側には中丸川流域の沖積地にいたる崖縁があり、東側の三反田境に新堀、西側の勝倉境に二の堀が掘られ、防備をめぐらした独立村落の形をなしている。その中心部に金上城が存在しているのである。金上は「水府志料」に、つぎのように記されている。
「金上村翅窘九町東三反田に境い、西勝倉の境に至り五町余あり。南那珂川を以て境ひとし、上大野、東坏大野の地に対せり。北は中根に隣り十五町余あり」
 これは江戸時代における金上村の境界と面積を示したものであるが、中世とまったく変っていないようである。それではなぜ金上村だけが、南側と北側の三反田・勝倉の村境にわざわざ長い堀を構えなければならなかったのであろうか。金上城を防御する外郭施設ということも考えられるが、近世においてすら43戸の戸数しかなかった金上村の人数では、三反田境の新堀の長さ700m、勝倉境の二の堀の長さ850m八五〇にもおよぶ長い防衛線を守りきることは困難である。したがって、この堀の存在は村の自衛的意味のほかに、村境として堀をめぐらしたことも考えられる。そこで、注目されてくるのが、常陸大掾一族吉田氏の那珂川北岸台地への土着の仕方である。前述のように、吉田広幹は那珂川北岸台地の市毛、堀口、武田、勝倉、新平、道理山などの浸蝕谷の谷頭に息子たちを配置したのである。しかし、金上の浸蝕谷の谷頭に、吉田氏は土着しなかったのである。本来ならば市毛、堀口、武田、勝倉の浸蝕谷を支配下におさめてきた吉田氏は、当然つぎに金上三反田の浸蝕谷を開発すべきである。
 ところが、金上をとびこして、新平、道理山の浸蝕谷に目をつけるのである。なぜ金上に吉田広幹は息子を配置しなかったのであろうか。それはおそらく、この地に吉田氏よりも早く他の豪族が土着していたからであろう。その豪族はあるいは金上城主の祖先かも知れない。
 鎌倉時代初期に、吉田氏が金上周辺に一族を配置して勢力をのばしてきたので、金上の地は勝倉吉田氏と新平吉田氏の両方から圧力をうける立場になったのである。そこで、両方の境にそって堀を構え、土塁を築いて領界を明確にし、侵略を防ごうとしたのではないだろうか。そうすると、新堀、二の堀が掘られた時代は鎌倉時代ということになるが、なお、今後の検討を必要とする。

金上氏の系譜

 金上城の城主は金上弾正だといわれている。『姓氏家系大辞典』にも、「常陸の金上氏 那珂郡勝田金上邑金上館は、金上弾正の居城なりと云ふ」とあり「三反田村史料参考舌」にも「金上城耻ニハ金上弾正盛光之ニ居ル、子盛忠天正十八年佐竹ノ為二討死ス」としている。「金上系図」には、つぎのようにみえる。
村上天皇左大臣高明—権大納言俊賢—中納言顕基—弾正明家—金上喜代丸明広—弾正明治—伊予守明成—伊予守明英—伊予守明ー—伊勢守明宗—伊勢守明高—弾正左衛門尉明利—左衛門尉明親—伊勢守明積—伊勢守明続—伊勢守明方—弾正明基—弹正明鎮—弾正左術門明良—主殿頭明光—弾正左衛門明福—修理亮明守—弾正左衛門明春—修理大夫明幸—修理亮明胤—弾正明直…
 この系図によると、金上氏は村上源氏の流れをくみ、伊予守明成が寛治3年(1089)8月から同4年9月までに、平井の地に築城して代々これに住み、天正18年(1590)8月15日、弾正明直が武田原において佐竹義宣と戦って討死し、金上城が滅びたことになっている。しかし、系図の内容に対する傍証史料がないので、そのまま信ずることはできない。けれども、常陸大掾一族の吉田氏が那珂川北岸に進出する以前に、金上平井の地に勢力をのばした豪族の存在が考えられるので、平安時代村上源氏の流れをくむ豪族が、金上平井の地に土着したという伝えをまったく否定してしまうことはできない。
 元緑4年(1691)9月に写したという「村々諸落着性書上留」には、「金上弾正江筑ス」として、「金上村・西野氏 堀口村・高野氏 下那珂西村・西野氏 市毛村・和地氏 堀口村・志水氏 枝川村・宮田氏」をあげ、元禄11年11月の「村々何姓落着書上留」にも、天正年中、金上弾正の旧臣として、金上村西野氏、下邢珂西村西野氏、堀口村高野氏、市毛村和地氏、枝川村西野氏を記録しているので、金上(平井)氏は実際に金上(平井)の領主だったのであろう。

○枝川城

那珂川の渡河点を掌握 天正18年落城

 枝川城は「水府志料」に、古屋敷里老の説に「江戸氏の族江戸信濃守又御宿信濃守とも称せしもの住せるよし。其後枝川播磨守咔帰咐といふものあり。天正年中、佐竹氏水戸城を襲ふ時、先づ此屋敷を焼討にすと云。然れども今その所在詳ならず、畠の内に城の内と称する土地あり。疑ふらくは是なるべし」とある。
 枝川城は那珂川北岸に近い平地に築かれた館城で、周囲には早戸川やその支流が枝のように分かれて流れ、那珂川に注いでいる。城跡は城の内とよばれ、地籍図をみると長方形の城郭が存在したことが知られる。旧国道六号線が城郭の中心部を通っているため、遺構は完全に破壊されている。枝川の小沢耕氏(故人)が、かって調査した略図によると南北に約100m、東西に約200mの土塁と堀を長方形にめぐらした単郭の城郭が築かれていたのである。
 南側の土塁の中央部が入口で、郭内に物見台か、または、供養塚と思われる円墳状の盛土があったようである。城郭の北東の方角に浄光寺跡と赤城鹿島神社が存在するので、枝川城の守護と関係があろう。枝川城は水戸城から那珂川を渡って奥州へ通ずる要衝の地にあり、那珂川の渡河点を掌握し、枝川から勝倉にいたる川岸の警備にも重要な役目を果たしたのである。枝川氏は江戸通房の子、通弘が枝川の地に住み、枝川氏を称するのである。
 藤四郎通清は六反田の「六地蔵過去帳」に、天文14年(1545)4月7日、勝倉川で横死、法名道林禅定門とみえ、その子の刑部少輔通近は、永禄9年(1566)11月上旬の大足村(現東茨城郡内原町)稲荷建立棟札に「枝川江戸刑部少輔信近」とみえる。また通近の弟の枝川兵庫介は、永禄3年12月9日の「薬王院御堂大光柱薄日記写」に、大旦那江戸但馬守忠道とならび「御奉行枝川兵庫助」と記録されている。

○清水館

髙野の小館 原野の有力

 高野の字富士山にある清水館跡は「水府志料」に、つぎのように記されている。「館跡一ヶ所 清水但馬と云者居る。天正五年丑五月、額田氏石神城を攻る時、これに従ふ。同十四年、額田落城後佐竹義宣に属し、慶長七年佐竹氏秋田に移るに及んで、其子伯耆守は高野に留り、弟弥五左衛門は秋正1圆…1篇那賀部.爵村之城主治水道閑正ホ、佐竹跄宣二仕、髙野村幷鹿嶋ノ内安方,您慈呂沈知行、六百貫懲ル田に従ふと申伝ふ。伯耆守子を源衛門と云ふ。其後弥一衛門と云者今に此所に住す」
この伝承をみると額田落城の年代などに問題はあるが、大体正しいようである。清水氏は「水府系纂」に、つぎのようにみえる。
「清水源衛門某、父ヲ伯耆某卜云フ、佐竹義宣二仕フ、領地ヲ秋田二移サル、時、浪人トナル、源衛門寛永年中、威公二奉仕シ、百石ヲ賜テ与力トナル、卒年未詳、子ナキヲ以テ、寺門次兵衛某翩赫岫門子源衛門儀久ヲ養テ子トス、源衛門儀久養父死シテ浪人トナリ、常州野之上高野二居ル、延宝六年戊午二月十八日、切符ヲ賜テ歩行士トナリ、鳥見役ヲ兼ヌ、元禄五年壬申四月御廟番トナリ自楽卜号ス」
 また、「清水氏系図」には、額田落城後、佐竹義宜に仕えた淸水但馬守は、600貫を領する有力な武士であった。清水氏が高野に土着した年代は明らかでないが、前述のように、高野の地はもとは佐竹氏の所領であったが、佐竹の乱で額田小野崎氏が押領したところである。そのとき清水氏は額田小野崎氏の家臣となったらしい。額田(現那珂郡那珂町)の毘慮遮那寺所蔵の大般若経、巻第二ーハ、巻第二ー九、巻第二ニ〇の跋語に、
「旦那淸水伯晉守成次 筆主濡耳 本驚少鷲 明応六年・五月十日 順海」とある淸水伯皆守成次こそ、額田城主小野崎下野守の家臣となった高野の清水氏にちがいない。だから、額田小野崎氏が、石神城を攻めたとき、淸水氏は額田方にしたがったのである。
 清水氏の館は、真崎浦に続く谷津田の突端部にある。北、東、南の三方は断崖で、深い谷にかこまれている。東側の崖縁にそって、長さ60m、基底幅15m、高さ3m、北側にも崖縁ぞいに長さ75m、基底幅15m、高さ3.5m、西側に長さ120m、基底幅10m、高さ3mの土塁がまわっている。西側の土塁は開墾のため50mほど崩されている。
 東側と北側には土塁の外に上面幅28m、深さ5mの薬研堀が谷津にそってまわっている。南側の崖縁にそって、約170mの長さに低い土塁がまわっていたが、明治初年に開塾のため崩されている。また、西側の土塁から45m外側にも、旧湊街道にそって長さ160mの土塁が走っていたが、昭和37年に崩されている。ここに馬埸があったといわれている。
 館内への入口は、谷津の谷頭にあたる南西側の崖縁で、ここに土塁の一部が残っている。屋形は東側と北側の土塁寄りの位置に建てられていた。屋形の前には井戸跡も残っていたが、埋められてしまった。郭内からすり鉢、波状文のついた常滑の大形班、石臼、石猥手水鉢、内耳鍋、古瀬戸灰釉壺、鉄袖小碗、天目茶碗、白磁茶碗などの破片や青磁の破片などが出土している。また、屋形跡から長さ約30cmの銅に金をちりばめたしゃもじに似た形の金属製品が出土したといわれている。おそらく、仏像などに製作者がそえて納めた月輪形銘札であろう。
 清水館は富士山の本郭に対して、約500m西方の県道をこえた字荒谷の地に、西の郭とよばれる遺構がある。北、東、南側には谷津田が入り、堀の役目を果たしている。崖縁にそって土塁が不整形にまわっており、東側と北側の土塁の外には堀跡が認められる。この地はニ軒屋ともよばれ、清水氏の子孫が現在も居住している。
 西の郭の畑からも内耳鍋の破片が出土する。西の郭の近くに白旗八幡とよばれる清水家の氏神が祭られていたが、のちに字桑木の現在地にうっされ、現在は高野の鎮守社となっている。
 高野の青龍寺跡の墓地には、清水但馬守の墓と伝えられる相輪部を失った宝篋印塔一基と源衛門儀久(自楽)の墓碑がある。明応6年(1497)開基の伝承をもつ青龍寺も、はじめは淸水氏の氏寺的性格をもって建立されたものであろう。室町時代から戦国時代にかけての淸水氏は、市域ではもっとも大きな勢力をもった武士であった。したがって、額田小野崎氏や佐竹氏の家臣として各地の合戦に出陣する談務をになっていた。そのための費用は、清水氏の知行地内の農民が負担したのである。また、清水氏は旧湊街道の道筋に館を構えていたので、往来の人たちから関銭を徴収したとも伝えられている。そこで、近辺の村人たちの間に、つぎのような歌が流れたといわれる。
 「畑にじしばり、田にびるも、高野の小館なけりやよい」
 畑や田にはびこって、農民を困らせるジシバリやビルモとよばれる雑草と同じように、高野の館がなければ、どんなによいことか、というのである。また、清水館は慶長の末ごろから、清水伯耆守の子、源衛門正仍が住んでいたので、源衛門屋敷ともよばれたことがあった。慶長7年(1602)に佐竹氏が秋田に移封され、浪人となった伯耆守正永と源衛門正仍親子は、今まで以上に高野村の田畑の開発や耕作に精出したようである。「清水氏系図」にも正仍のとき「高野村之田地、三百六十石耕作候」と記されている。こうした淸水氏親子の行為が、また、謨民を苦しませる結果となったのである。そのため今度は、
「畑にじしばり、田にびるも、高野の源衛門なけりやよい」
と歌われるのである。こうした歌が農民の間に歌われたということは、それだけ淸水氏の勢力が大きかったことを示しているのである。

○大夫屋敷

庭園を配した神職の居館 村松明神の神領

 上高場字原にある大夫屋敷は、「水府志料」に、「大夫屋敷 長三町、横弍町程。古昔神職の居処なり」と申伝とあり、「上高場村鎖守幷稲田村今鹿島宮建立之覚書」にも、上高場村鎮守八幡宮の「西方に大夫屋鋪と号神主の居琦に館程の構にて在之候」と記されている。現在、大夫屋敷跡の森林をぼうじ山(墓地山)とよび、昔、寺があったという伝えもある。
 屋敷は湧水地の側に作られ、今でも漢水が盛んで大きな池になっている。この池は御手洗で、かつては稲種の芽出しに使われたといわれる。この湧水地の東側に長さ30m、基底幅5m、上部幅1.7m、高さ2.5mの土塁が方形にまわっている。西側の土塁の下には池があり、南側には土塁にそって堀があり、池の水がひかれている。北側の土塁の中央部に、蔵王山金峰神社の社殿がある。東側の土累の右隅に鉄分を含有する井戸跡がある。
 この本郭の西側には、南北に長さ13m、東西に長さ40m、基底幅5m、上部幅2m、高さ2mの土塁をめぐらす長方形の二の郭が存在する。二の郭の南側は池になっている。池には中島があって、ここにも低い土塁をめぐらす遺構がある。本郭の東側にも、かつては土塁があり馬場跡だといわれている。現在は畑になっており、ここから内耳鍋や浅鉢の土器が出土している。
 大夫屋敷は「水府志料」に「古昔神職の居処なりと申伝」とあるので、神主の館であったことが知られる。しかし、中世における農村の小社は、いずれもその地方の土豪氏神が多く、氏神の祭祀は当然、氏神を祭る土豪によってなされていたのである。たとえば、前述のように、上高場の八幡宮は、戦国時代にはこの地方の土豪であった松本氏によって祭られていたのである。したがって、専門の神職は、農村の小社の祭祀のために常住する必要はない。ところで大夫は「補宜の大夫」などとよばれるように神主の称でもあるので、この大夫屋敷には、明らかに神主が住んでいたのである。
 また大夫屋敷の西隣の地には、神田前東、神田前西、神田屋敷、神田後などの小字名があるので、大夫屋敷に住んでいた禰宜の大夫との関連が考えられる。鎌倉・室町時代のころ、高場周辺で彌宜の大夫を必要とした大きな神社といえば、村松明神をおいてはほかにない。前述のように「開基帳」には下高場の鋅宮明神は、村松明神の一の鋅で鎌倉時代までは真崎浦に祭られていたが、真崎の地が公儀に取上げられたので下高場に舞の宫を勧請した、と伝えているので、南北朝時代から室町時代のころに高場の地が、村松明神の神領となったことがあったのである。そのとき神領を支配するために預宜の大夫がやってきて、土高場に大夫屋敷を構えたのではないだろうか。また、神田は村松明神の神田をさすのであろう。
 その後、佐竹の乱で佐竹氏から高場の地を押領した江戸但馬守は、高場の原野を御鷹野とした上、永禄5年(1562)には松本図書とともに大夫屋敷の近くに八幡宮を建立するのである。おそらく、江戸氏の高場進出によって、村松明神の神領も押領され、欄宜の大夫も村松に引上げていったものと思われる。

○長者屋敷

 大夫屋敷の北側に長者屋敷とよばれるところがある。「水府志料」にも、「長者屋敷 弐拾間四方あり、何人の居なるをしらず」とあり、「上高場村鎮守幷稲田村今鹿島宮建立之覚書」にも、高場八幡宮の「東方之原に長者屋鋪と申伝候旧晴有」と記されている。上高場字東向にある長者屋敷跡がそれにあたる。現在この付近には住宅が建ちならんでいるが、その一角に土塁や水をたたえた堀の一部が残っている。長者屋敷の東隣には沼頭、水久保などの小字名があり、このあたりはかっては湿原地であったことが知られる。しかし、この長者屋敷に住んでいた人物については、まったく不明である。

○菊池車人館

新平の小館 土豪との縁組

 三反田の新平にあった菊池隼人の館は、「松本家由緒覚書」に、「松本図書泰正内室者、三反田村菊池隼人の息女也。隼人者三反田村之内、七百石を致二知行〔同村之内新平と云所に小館を構致二居住〔江戸但馬守殿の幕下に御座候。谷田村の菊池党にも一類之由、右七百石の知行目録者、子細在レ之松本図書方江も預置、今以嫡流松本久右衛門方に所持仕候。且隼人儀者、同所之谷田部、打越両家江も縁者にて御座候由、就中菊池内膳息女、打越豊後方江縁付、武茂組御代官打越瀬左衛門殿、三反田村打越宇左衛門先第之先祖也。菊池内膳子、同隼人息女者、打越彦三郎方江縁付、今の打越又右衛門、同源吉、同次左衛門党の祖先也。松本図書と打越彦三郎者相智也。此彦三郎儀者、額田陣之節、向山の窪にて川井主水、松崎大学と云者の大勢に被一一取囲〔無二比類ー相働討死仕候由、申伝候」と記されている。
 この覚書によれば、天正のころ三反田村の新平に、江戸但馬守に仕えていた菊池内膳の子、菊池単人が、小さな館を構えて居住していたことが知られる。しかも、菊池华人は自分の娘を、高場の土豪ではじめ江戸但馬守に仕え、のちに額田の小野崎下野守の家臣となった松本図書泰正や三反田村の土豪打越彦三郎に嫁がせていたのである。とりわけ、打越家と菊池家の縁は深く、隼人の姉妹も打越豊後に縁付いていた。また同じく、三反田に居住していた江戸但馬守の家臣、谷田部家とも姻戚関係を結んでいたのである。
 菊池隼人が構えていたという新平の館は、鎌倉時代初期に常陸大掾一族の新平氏が、新平溜の北側の小山とよばれる地に構えた館の跡に築かれたものであろう。谷津田を見降す台地の縁に、方形単郭に土塁をめぐらした館跡があったが、整地作業のため破壊されてしまった。
六地蔵過去帳」に、道心禅門球肋阿日新平住とみえる法名道心を与えられた人物は、菊池单人の祖父にあたるのかも知れない。「己卯五月四日」は、永正16年(1519)5月4日にあたる。

○谷田部中務少輔屋敷

谷田部氏一族と三反田 屋敷跡出土の陶器

 「三反田村老人噺」に、此村二江戸ノ家臣谷田部中務トカ云モノ、下屋敷アリ、其普請ノ手アツキコト皆石垣也」とみえる。この谷田部氏の下屋敷は「三反田村史料参考書」に「新平坪二大掾氏ノ族、新平某ノ居城アリ、其他岡田館、高井館等アリシト云フ」とある、高井館がそれにあたるものであろう。
 三反田の上高井の畑から古瀬戸灰軸の壺、すり鉢、常滑の大理、内耳鍋などの破片が出土する地点があるので、そのあたりに谷田部氏の屋敷があったものと思われる。この付近は開墾されて畑となっているが、かっては堀があったといわれている。
 谷田部氏は谷田部(現東茨城那茨城町谷田部)を本拠とする土豪で、「六地蔵過去帳」に、「谷田部 男也 住居 道渋禅門必矍靄」とあるのが初見といわれる。「戊寅十二月十日」は、永正15年(1518)12月10日にあたる。この谷田部主計の養子になったのが、江戸但馬守通雅の子雅胤で、谷田部越後守と称した。
 この養子緑組みによって、谷田部氏の地位はにわかに高まることになった。谷田部越後守雅胤は天文24年(1555)正月2日に没したが、その子に中務少輔重種と越後守通種がいたようである。重種と通種とは江戸但馬守重通の命を奉じて、鹿島神宮よりの祈願巻数の受け取りや、それに対する供料の進納、あるいは、鹿島神宮神領であった和田、平磯郷(現那珂湊市)の油免の年貢督促の役などを勤めている。「水府系篆」や谷田部氏の系図によると、中務少輔重種(胤)の子の大学介重元は、三反田村を領し天正18年(1590)に、その子の弘胤とともに勝倉で討死したことになっている。
 しかし『新編常陸国誌』には、万治中、村内二谷田部四郎兵衛アリ、其曾祖父ヲ谷田部志摩卜云ヒ、江戸但馬守二仕へ、三反田村知行ノ内ニテ、馬上二騎ノ軍役ヲ勤メ、二十人ノ歩士ヲ預りシモノナリ、其子ヲ治部少怖卜云フとあり、谷田部志摩が三反田村の地を知行したことになっている。万治3年(1660)7月に、三反田村の谷田部四郎兵衛が提出した「御尋御座候二付、以一ー書付ー申上候事」とある由緒書によると、谷田部志摩は、江戸但馬守の家老谷田部中務少輔一同で、そのあとは子の治部少輔がついだ。治部少輔の惣領谷田部弥八郎は、額田の乱にー八歳で出陣し、額田の岩井窪で討死した。江戸但馬守が没落したので、三反田村に引きこもった、とある。高井の共同墓地のなかにある谷田部家墓地に、相輪の部を欠いた二基の宝僚印塔が建っている。那珂川北岸の崖縁にある共同基地は、谷田部中務少輔の屋敷跡と近いので、おそらく、谷田部氏の屋敷地の墓地にあった宝億印塔をのちにここに移したものであろう。

○新地館

由緒不明の天道山 館跡と宝慶印塔

 新地館は佐和下宿の字新地に築かれた由緒不明の館跡で、新川から樹枝状にのびた浅い浸触谷の谷頭近くに位置している。通称天道山ともいわれる。
 館跡は東西に長さ70m、基底幅6m、上部幅1.5m、高さ2.5m、南北に長さ60m、基底幅6m、上部幅1.5m、高さ2mの土塁が方形にまわっている。この郭内の中央部は、幅5mの堀と高さ2mの土塁によって仕切られ、複郭になっている。東側が本郭で井戸跡があり、今でも湧水がみられる。この複郭の周囲にも堀がめぐっていたらしく、現在も北側、東側、西側の一部に堀が残っている。
 また、北側にも南北に長さ42m、東西に34mと、同じく東西に38m、南北に40mの低い土塁をめぐらす土壇状の突き出しが二つある。その一つに宝篋印塔が安置されている。宝篋印塔は小さな塚の上にあり、高さ1.18mで、相輪の一部が折損している。現在、下宿の人びとによって毎年4月に、この宝珠印塔のまわりを真言をとなえてまわる天道念仏がおこなわれている。
 館跡については、誰のものかいい伝えもないが、おそらく室町時代のものと考えてよいであろう。宝珠印塔も、この館を構えていた豪族が建てたものと思われる。

○天神山館

館跡と中世墓地 立ちならぶ五輪塔

 天神山館は、津田の天神山に築かれていた。現在は団地造成のため崩されてしまったが、かっては那珂川北岸の沖積地に突出した標高23mの台地の突端部を北西に約60mにわたって掘切り、南東側に土塁を方形にめぐらす遺構があった。天神山の南側の地を立下とよんでいるが、これは館下のあて字で、この上に館があったことを物語っている。
 台地の南側は小場江に続く断崖で、北側には間とよばれる浸蝕谷が、若宮の地まで深く入りくんでいる。ここに谷津田が早くから開かれていたことは、弘安2年(1279)の「常陸国作田惣勘文」(弘安田文)に「津田十二丁」とあるので明らかである。おそらく、津田の地名は、この「谷津田」からつけられたものであろう。間の谷津の西側にあたる若宮とよばれる崖縁の竹林には、五輪塔がたちならぶ中世の墓地があった。この墓地の五輪塔は現在、津田共同墓地に5基ほど移され、永井家で供養している。今でもときおり、若宮の崖縁あたりから、五輪塔の空、風輸などが出土するということである。五輪塔は比較的小形で火輪が小さく、屋蓋の流れにも力がないので戦国時代のものと思われる。
 これらの五韓塔は、天神山に館を構えた土豪の墓地にたてられたものであろう。しかし、その系譜は明らかでない。

○大山館

八幅太郎義家伝説と大山 館跡と金くそ

 大山館跡は通称大山とよばれる馬渡の字西向野にある。本郷川にそって樹枝状に入りくむ浸蝕谷に突きだした台地に、高さ1.5m、幅3mの土塁を東西に約100m、南北に約150mほどめぐらした、方形単郭の館が築かれていたといわれる。しかし、早川鉄工所や日本加工紙の紫雲寮建設のために整地され、現在遺構は認められない。かつては、土塁の内部は大きなクヌギ林になっており、開墾のさいには大量の土器が出土したという。東側は本郷川が流れる水田低地になっており、西側も水田低地でかこまれている。その台地の先端部付近から金くそがたくさん出土する。また、館跡の北側の谷には、井戸跡も存在する。大山館は「前渡郷土誌」にもつぎのように記されている。
 「馬渡字後谷津には南方にそびえた高丘がある。館址らしい。南方に大手と思はれる処があり、周囲には土手を築き、頂上には馬場の如きものの形跡がある。大山氏の館址といふ」
 伝説では大山四郎左衛門の居宅で、八幡太郎義家が奥州征伐のさいに宿泊したといわれるが、史実ではない。向野からは糸切底の厚目の皿に一面におろしめをつけた灰釉おろし皿の破片が出土している。この古瀬戸のおろし皿は、鎌倉時代に属するものであるが、大山館との関係は明らかでない。

○柴田カジ屋敷

山林内に小規模な遺構 柴田氏の伝承

 東中根の芝野の山林に、柴田カジ屋敷とよばれる遺構がある。中丸川流域から東中根と西中根を分けるように浸蝕谷が細長くのびており、その東側の台地に、土塁を長方形にめぐらす屋敷跡がある。屋敷跡には南北に14m、東西に80m、高さ1mの土塁が長方形にまわっている。
 この屋敷跡の南側には、水田のなかを通って西中根に行く道があり柴田道とよばれている。また、水田のある低地の南や西側一帯は、柴田という小字名がついている。柴田カジ屋敷には、柴田氏が住んでいたといわれているが、柴田氏に関するその他の伝えはなにもない。おそらく、柴田氏は中根城に関係のある鍛冶職か、武士であったと思われる。

○甚兵衛屋敷

有力農民の屋敷跡 土塁の一部をのこす

 足崎の字北根に甚兵衛屋敷とよばれる遺構がある。北根から高野に行く神明坂の北側の崖縁に、土塁の走る屋敷跡が残っている。土塁は東西の方向に基底幅7m、上部幅1.8m、高さ1.5mのものが77mにわたって存在し、堀跡も認められる。土塁上の草むらから小花文の刻印のある理やすり鉢などの破片が出土している。土塁はさらに東側や南側にもあったが、現在は崩されて屋敷跡も畑になっている。また、屋敷跡の西側の谷には、井戸跡があって今でも水が湧きでている。

勝田市史(昭和50年)より