ひたちなか市(旧勝田)木の伝説

 下高場の鋅香取神社の境内に、「起上り松」という老松があった。あるとき大風のために倒されてしまったが、村松の方角から一本の舞が飛んできて、松の幹にささった。すると不思議にも、横倒しになっていた松はしだいに起き上って、もとに戻ったという。

 堀口の金砂神社には、茨城県の天然記念物に指定されている五株の大柱があり、藤の古樹とからみあう姿は壮観で、人々は「金砂の大松」と称している。元亀3年(1572)、この厶ラの敬神の念深い5人兄弟が、久慈郡の金砂神社を分祀し、報謝のため、ヒイラギ1株ずつを寄進した。その分祀祭礼の当日、急に大雷雨があり、五竜が5本の楼に天降り、祭事がすむと、またヒイラギをよじ登って昇天した松と藤のからみあった姿は、そのときを現わしているのだといわれている。

 枝川の小沢一族の総本家には、「羽衣の松」と称される黒松の巨樹がある。小沢家の祖太郎左衛門が、ある年の正月、庭先に赤松と黒松の枝をさして門松とした。ところが黒松はそのまま根づいて年ごとに成長し、みごとな名づけ、枝を切ることを禁じたという。

 東石川大島には、「つつじ神さま」「なる神さま」と呼ばれている大つつじがあり、そこは無緑仏が祀られて人々の信仰を集めている。寛永15年(1638)奥州仙台の熊吉という人が、成田詣りの帰路、ここで不慮の死を遂げた。厶ラの人々が、あわれんで葬り、基じるしに手むけたつつじの枝が根を生じ、やがて大つつじになった。あるとき、ある病者の枕辺に無縁さまが現われて、信仰すれば病が除かれると告げたので、香花を手むけると病がなおったという。それ以来多くの人々が信仰するようになったのである。

 水戸から磐城地方へ通ずる浜街道には、松並木があった 殿さまが通るとき涼しいようにと、並木新左術門という人が植えたので、「並木」という名がついた。新左衛門は仙台の人らしいといわれている。

 勝倉に一本松という地名がある。武田池の南岸の高台で徳川光圀によって破却された照道寺があったところである。照道寺は永治元年(1141)に紀州根来寺の僧陰西が建立したと伝え、そのとき陰西はインドの檀徳山からもち帰った松の実を蒔いたが、それが生じて成長したのが「一本松」だという。松の葉が一本だったので一本松と称したというが、明治30年(1897)の大風でついに倒れた。現在勝倉神社に、その樹皮の一片が奉納されて残っている。

 また勝倉の字十三反付近は、源義家が奥州征伐のとき通ったところで、泥の深い湿地のため多くの兵士や軍馬が死んだ。そのため義家はもっていた檜の杖を突きさして供養した。その杖が根付いて大樹となり、枝も葉も下を向いていたので「逆桁」といわれていたが、現在は残っていない。

勝田市史・民族編(昭和50年3月15日発行)より