勝倉の大平に、長者ケ谷津というところがある。そこに長者がおり、長者の名は不詳だが、水戸市渡里町のイチモリ長者とは縁戚関係があったという。八幡太郎義家が奥州征伐の途中この長者のところに立ち寄り、 昼食を求めたところ即座に300人分を用意してもてなした。義家は、このような長者をこのままにしておいては、後世のわざわいのもとになると考え、奥州征伐の帰途、一夜のうちに長者の屋敷を焼き払った。
長者は中丸川に身を投じ、一族もことごとく滅されたといわれる。長者ケ谷津一帯には古墳が多く、
「朝日さ 夕日輝く木の本に 黄金千杯 朱千杯」とか
「朝日さし 夕日の照るところ 漆千樽 朱千博 白金万両 黄金万両」
という歌が伝承されている。
馬渡は、もと川が二又に流れていたので、二又という地名だったが、八幡太郎義家が奥州征伐のとき数十頭の軍馬を引き連れてこの川を渡ったので、馬渡というようになった。軍馬が馬を洗ったところを「馬洗い」という。
また「馬洗所」が「マアレド」となまり、「マワタリ」になったといわれている。
高野は、弘法大師が金刚峰寺を建立するため全国を巡錫したとき、寺を建てようとしたところである。しかし、どう検分しても霊場に必要な48谷には1谷不足で47谷しかない。そこで大師はあきらめて去り、紀伊国で高野山を開いたという。
今でも勝田の高野を「高野の47谷」と称している。
三反田は、美しい田が多いところなので、「美田多」と書くのが正しいのだという。ところが、そんなに美しい田がたくさんあるということになっては、年貢をたくさんかけられて困るので、「三反田」と書くようになったのだといわれている。
高場も「鷹埸」と書くのが本当で、水戸様がよくこの辺で鷹狩りをしたからだという。
金上には、「金上弾正」という税金取り立ての役人がいて、金を取り上げたので「金上」という。
津田は「津田つんぬけ山ばかり」といわれるほど山の多かったところで、その山のツタカヅラから「津田」という地名になった。
市毛で弄崎、枝川で拜田といわれるあたりは、田下駄を使うほどの深田だった。あるとき、遠方から嫁いできた花嫁が朝早く起きて仕事にいき、探田に素足のまま入ったので、沈んでしまい死亡した。そのあとの田には、笄が浮んでいたので、そこを弃崎、笄田と呼ぷようになったというのである。
勝倉の十三反は、前九年の役に源頼義、義家父子の軍勢が通ったとき、那珂川流域は泥が深いので、松ソダ13反(一反は60把)を埋めてようやく渡ったので地名となった。勝倉にはこのほか、後述するように、勝倉城にともなっていくつかの地名の伝説がある。
勝田市史・民族編(昭和50年3月15日発行)より